文章を書くときの「深さ優先」と「広さ優先」の話
文章を書くときの「深さ優先」と「広さ優先」の話
本を書く作業でも、特別授業の準備作業でも同じなんですけれど、何か大きなものを作るときは「深さ優先」にするか「広さ優先(幅優先)」にするかという判断を迫られることがあります。
迫られるといっても、迫っているのも迫られるのも自分なんですが。
話を単純にするために文章としましょうか。文章を書いていて、今書いている段落や今書いている節をさらに詳しく時間をかけて書いていこうというのは、深さ優先になります。今やっていることをどんどん深めていくわけですね。
それに対して幅優先では、今書いているところはいったんこのぐらいにしておいて、その次の節を書いたり、あるいは次の章を書いたりする。これは広さ優先あるいは幅優先になります。あまり深めないでまずは広く押さえておこうというわけですね。
これはどちらが良いどちらが悪いという問題ではなくて、書いている途中では、必ずこの両方がせめぎ合いをすることになります。両方同時にはできないですね。
特に締め切りがある文章の場合には、与えられた時間の中でまとまった文章を書かなければいけませんから、この判断は重要になってきます。
深さ優先ばっかりしていると、とても狭い範囲で話が終わってしまいます。言いたいことが全部言えないみたいな状態ですね。だからといって、広さ優先をしてしまうと、なんだかいろんな話をしているけれど、たいして深くないし、「なるほど」と思えない。そんな状況になるわけです。 いい感じの深さといい感じの広さの両方が必要なわけです。
アウトライナーなどのツールを使うと、この広さと深さのコントロールをある程度行うことができます。自分が思いついたことや、考えたことをアウトラインに入れていって、後から広さや深さを調節するわけですね。それはそれで結構な話です。
ただし、アウトライナーを使いすぎると、結局文章に落としたときに、ものすごく広い範囲のものをカバーすることになってしまって、予定を消化してしまうことが(私の場合は)多いですね。つまり、それは、自分が書こうとしているものの全体像をツールによって逆に見誤ってしまうという状況なのかなと思っています。
自分の肉眼で見える範囲ならば、うまくまとめられたのだろうけれど、なまじっか望遠鏡のようなものを使うから、あるいは顕微鏡のようなものを使うから、自分の能力を超えた範囲を扱ってしまうということです。
それは散歩に似ている部分もありますね。自分は徒歩で森を抜けて公園まで歩いて行くというその全体像があるときに、自動車を使ったりして高速移動してもあまり意味は無いわけです。多ければ良い、早ければいい、網羅的であれば良い。そのように考えるのはやはり短絡的でしょう。物事には適切なサイズというものがあるのです。なぜなら、読む方も人間だからです。
ここでも、やはり「読者のことを考える」という原則が生きてくるように思います。
本を書く作業でも、特別授業の準備作業でも同じなんですけれど、何か大きなものを作るときは「深さ優先」にするか「広さ優先(幅優先)」にするかという判断を迫られることがあります。
迫られるといっても、迫っているのも迫られるのも自分なんですが。
話を単純にするために文章としましょうか。文章を書いていて、今書いている段落や今書いている節をさらに詳しく時間をかけて書いていこうというのは、深さ優先になります。今やっていることをどんどん深めていくわけですね。
それに対して幅優先では、今書いているところはいったんこのぐらいにしておいて、その次の節を書いたり、あるいは次の章を書いたりする。これは広さ優先あるいは幅優先になります。あまり深めないでまずは広く押さえておこうというわけですね。
これはどちらが良いどちらが悪いという問題ではなくて、書いている途中では、必ずこの両方がせめぎ合いをすることになります。両方同時にはできないですね。
特に締め切りがある文章の場合には、与えられた時間の中でまとまった文章を書かなければいけませんから、この判断は重要になってきます。
深さ優先ばっかりしていると、とても狭い範囲で話が終わってしまいます。言いたいことが全部言えないみたいな状態ですね。だからといって、広さ優先をしてしまうと、なんだかいろんな話をしているけれど、たいして深くないし、「なるほど」と思えない。そんな状況になるわけです。 いい感じの深さといい感じの広さの両方が必要なわけです。
アウトライナーなどのツールを使うと、この広さと深さのコントロールをある程度行うことができます。自分が思いついたことや、考えたことをアウトラインに入れていって、後から広さや深さを調節するわけですね。それはそれで結構な話です。
ただし、アウトライナーを使いすぎると、結局文章に落としたときに、ものすごく広い範囲のものをカバーすることになってしまって、予定を消化してしまうことが(私の場合は)多いですね。つまり、それは、自分が書こうとしているものの全体像をツールによって逆に見誤ってしまうという状況なのかなと思っています。
自分の肉眼で見える範囲ならば、うまくまとめられたのだろうけれど、なまじっか望遠鏡のようなものを使うから、あるいは顕微鏡のようなものを使うから、自分の能力を超えた範囲を扱ってしまうということです。
それは散歩に似ている部分もありますね。自分は徒歩で森を抜けて公園まで歩いて行くというその全体像があるときに、自動車を使ったりして高速移動してもあまり意味は無いわけです。多ければ良い、早ければいい、網羅的であれば良い。そのように考えるのはやはり短絡的でしょう。物事には適切なサイズというものがあるのです。なぜなら、読む方も人間だからです。
ここでも、やはり「読者のことを考える」という原則が生きてくるように思います。
この文章は、音声入力を利用して結城浩のマストドンに投稿したものです。