早朝活動のプログラミングと自己肯定感の話から始まって、大きな違いが生まれる2つの方向について考える
早朝活動のプログラミングと自己肯定感の話から始まって、大きな違いが生まれる2つの方向について考える
今日の早朝活動は、検索のプログラムを書いていました。外部の検索サービスのAPIを叩く小さなプログラムなんですが、2年位前に作ったものを整備し直しているところです。
先日はデータの追加部分を作っていました。今朝は、過去のデータも含めて全部手元にダウンロードし直すツールを作っていました。まだ実際にダウンロードはしてませんけれど、小規模なテストはうまくいってるので大丈夫でしょう。
検索のプログラムというのは、自分が管理しているたくさんのウェブサイトを、横断的に検索するためのツールです。闇雲に小さなウェブサイトをたくさん作ってきたので、検索をちゃんと整備しないと、そもそも私自身が不便なのでした。
早朝活動では、朝の散歩の前に行う活動なので、ある程度のひとまとまりになるように心がけています。ひとまとまりの仕事を終えて、朝の散歩に出ると、大変気分が良いからです。
プログラムを書いていて、ある程度の進捗があると大変大きな達成感があります。プログラムですから、うまくいったかどうかがはっきり目に見えるからでもあります。
その達成感は、もちろん、作業のモチベーションアップにつながりますし、大げさなことを言うならば、自己肯定感にもつながっているように思います。
プログラムがうまくいくというのは、作っている本人にとっては大きな喜びです。客観的に見て大きな仕事を達成したかどうかとは、ちょっとニュアンスが違いますね。なので、何かうまくいったというプログラムを見たらその成果物がどれだけ些細なものであってもぜひ褒めてあげてください。
プログラムがうまくいって、モチベーションが上がって、自己肯定感が高まるというのは、それ自体は何も悪いところはありません。喜ぶのはいいですね。でもそれと同時に他者が言うことではありませんけれど、本人の中では注意しなきゃいけない部分があります。
いやいや、一般的に書いてますけれど、これは単に私個人の考え方の話なので、主語を大きくするのはやめましょう。これは私の話。
自分が作っているプログラムがうまくいったときには、心から喜ぶようにしています。もっとそんな心がけをしなくても心から嬉しいわけですけれど。
そこで得られる自己肯定感というのは、しばしば「俺ってばスゲー」みたいな考えに至ることがあります。ジョークや軽口で言ってるうちはまだいいんですけれど、自己肯定感が、尊大な自分につながっていくようだと注意が必要になってくると感じます。それはクリスチャンとして警戒する「自分に栄光を帰する」という態度につながっていくように感じるからです。
何かを達成したことがすごい。これはいい。何かを達成したことを喜ぶ。これもいい。これを達成できる技術を自分が持っている。これもいい。
しかし、これだけのことをできる自分は偉い。ここから警戒が必要になってきます。
自分に栄光を帰することを警戒する理由はたくさんありますけれど、1つは感謝の気持ちを忘れがちになるという点です。自分は偉いからこれこれのことができるというと、自分がそれを達成した際に助けてくれたものや助けてくれた人の存在を忘れてしまいます。それはよろしくないと思います。
もう一つは、客観的に考えても、自分に栄光を帰することは、理屈に合わない部分があるからです。もう少し言うならば、見ている範囲があまりにも狭すぎると言えるからです。
何かを達成するためには、様々なことを考えたり判断する必要があるわけですけれど、何かを判断したり、何かに気づいたりするという行為のどこまでが自分に帰することができるのか私には分かりません。
ここはわかりにくいと思うので、もう少し詳しく話します。
自分は何かを考えるときや思いつくときなど、すべての知的活動の根源を私は知りません。何かが頭に浮かぶとき、それが全て自分の意思から出ているようには私には思えないのです。心の中から、あるいは頭の中から何かが出てくるわけですが、それは自分が命じたから出てきたものとはなかなか言い切れません。これは多くの人にとって同じだと思うんですけれど、これは大変個人的な感覚なので、自分のことしか観察できません。なので、引き続き私個人のこととして話を進めます。
自分に浮かんだ考えは、どうやって頭の中に浮かんだか、私はつぶさに解説することはできません。もちろんいくつかは解説することができます。これとこれから論理的にこれが出てくるとか、これについては以前本を読んで知っていたとか。でも、それですが、どうして今まさにこのタイミングでそれを思い出したかという理由を私は説明することができません。
簡単に言うなら、あるアイディアが、自分の頭や心に浮かんだという第一原因を、私は説明することができないのです。強いて言うなら「ふと、それが浮かんだ」や「そのことにはっと気づいた」のようにしか表現することはできません。それはまるで空から何かが落ちてきたとか、真っ暗な中でおもちゃ箱をごそごそ探っていたら面白いものが見つかったみたいなそんな感覚です。おもちゃ箱ごそごそ探ることは自分の意思かもしれませんけれど、何が見つかるかは私の意思かどうかはよく解りません。
もちろん普段からおもちゃ箱に(つまり自分の心や頭に)どんなものを入れるかというのは、普段の生活習慣や学習かもしれません。それから、また暗闇の中でおもちゃ箱に手を入れようと思うことも自分の意思かもしれません。でもそこで見つかるものについてはどうでしょうね。
それからまた、比喩を続けるならば、おもちゃ箱に手を入れようと決心すること自体が、そもそもどこから来ているのか、私にはよく解りません。
本当に、本当に、深いところまで、第一原因のそれ以前の根本的な原因まで、探ってみると「これは私が偉いからできることだ」のように考えるのは、大変視野が狭い考え方のように思うのです。これは、道徳や倫理とは少し話が違うとも感じます。「自分に栄光を帰する」というのは、単純に考えが浅いというか、単純すぎるというか、子供っぽすぎると思うんです。
自分が何かを達成することを喜ぶのは嬉しいことです。でもそこから一歩を進めるとき、その方向はとても重要です。
これは私が偉いから達成できたことなのだ、のように、自分に栄光を帰するのか。
達成できたことが嬉しいので、私はそれを喜ぶ。そしてこのような状況に至らしめてくれた様々なものや人や、神に感謝するのか。そしてそのために感謝する対象を探すのか。
この2つの方向はずいぶん大きく違うと思うのです。
朝の散歩をしながら、そんなことを考えていました。
今日の早朝活動は、検索のプログラムを書いていました。外部の検索サービスのAPIを叩く小さなプログラムなんですが、2年位前に作ったものを整備し直しているところです。
先日はデータの追加部分を作っていました。今朝は、過去のデータも含めて全部手元にダウンロードし直すツールを作っていました。まだ実際にダウンロードはしてませんけれど、小規模なテストはうまくいってるので大丈夫でしょう。
検索のプログラムというのは、自分が管理しているたくさんのウェブサイトを、横断的に検索するためのツールです。闇雲に小さなウェブサイトをたくさん作ってきたので、検索をちゃんと整備しないと、そもそも私自身が不便なのでした。
早朝活動では、朝の散歩の前に行う活動なので、ある程度のひとまとまりになるように心がけています。ひとまとまりの仕事を終えて、朝の散歩に出ると、大変気分が良いからです。
プログラムを書いていて、ある程度の進捗があると大変大きな達成感があります。プログラムですから、うまくいったかどうかがはっきり目に見えるからでもあります。
その達成感は、もちろん、作業のモチベーションアップにつながりますし、大げさなことを言うならば、自己肯定感にもつながっているように思います。
プログラムがうまくいくというのは、作っている本人にとっては大きな喜びです。客観的に見て大きな仕事を達成したかどうかとは、ちょっとニュアンスが違いますね。なので、何かうまくいったというプログラムを見たらその成果物がどれだけ些細なものであってもぜひ褒めてあげてください。
プログラムがうまくいって、モチベーションが上がって、自己肯定感が高まるというのは、それ自体は何も悪いところはありません。喜ぶのはいいですね。でもそれと同時に他者が言うことではありませんけれど、本人の中では注意しなきゃいけない部分があります。
いやいや、一般的に書いてますけれど、これは単に私個人の考え方の話なので、主語を大きくするのはやめましょう。これは私の話。
自分が作っているプログラムがうまくいったときには、心から喜ぶようにしています。もっとそんな心がけをしなくても心から嬉しいわけですけれど。
そこで得られる自己肯定感というのは、しばしば「俺ってばスゲー」みたいな考えに至ることがあります。ジョークや軽口で言ってるうちはまだいいんですけれど、自己肯定感が、尊大な自分につながっていくようだと注意が必要になってくると感じます。それはクリスチャンとして警戒する「自分に栄光を帰する」という態度につながっていくように感じるからです。
何かを達成したことがすごい。これはいい。何かを達成したことを喜ぶ。これもいい。これを達成できる技術を自分が持っている。これもいい。
しかし、これだけのことをできる自分は偉い。ここから警戒が必要になってきます。
自分に栄光を帰することを警戒する理由はたくさんありますけれど、1つは感謝の気持ちを忘れがちになるという点です。自分は偉いからこれこれのことができるというと、自分がそれを達成した際に助けてくれたものや助けてくれた人の存在を忘れてしまいます。それはよろしくないと思います。
もう一つは、客観的に考えても、自分に栄光を帰することは、理屈に合わない部分があるからです。もう少し言うならば、見ている範囲があまりにも狭すぎると言えるからです。
何かを達成するためには、様々なことを考えたり判断する必要があるわけですけれど、何かを判断したり、何かに気づいたりするという行為のどこまでが自分に帰することができるのか私には分かりません。
ここはわかりにくいと思うので、もう少し詳しく話します。
自分は何かを考えるときや思いつくときなど、すべての知的活動の根源を私は知りません。何かが頭に浮かぶとき、それが全て自分の意思から出ているようには私には思えないのです。心の中から、あるいは頭の中から何かが出てくるわけですが、それは自分が命じたから出てきたものとはなかなか言い切れません。これは多くの人にとって同じだと思うんですけれど、これは大変個人的な感覚なので、自分のことしか観察できません。なので、引き続き私個人のこととして話を進めます。
自分に浮かんだ考えは、どうやって頭の中に浮かんだか、私はつぶさに解説することはできません。もちろんいくつかは解説することができます。これとこれから論理的にこれが出てくるとか、これについては以前本を読んで知っていたとか。でも、それですが、どうして今まさにこのタイミングでそれを思い出したかという理由を私は説明することができません。
簡単に言うなら、あるアイディアが、自分の頭や心に浮かんだという第一原因を、私は説明することができないのです。強いて言うなら「ふと、それが浮かんだ」や「そのことにはっと気づいた」のようにしか表現することはできません。それはまるで空から何かが落ちてきたとか、真っ暗な中でおもちゃ箱をごそごそ探っていたら面白いものが見つかったみたいなそんな感覚です。おもちゃ箱ごそごそ探ることは自分の意思かもしれませんけれど、何が見つかるかは私の意思かどうかはよく解りません。
もちろん普段からおもちゃ箱に(つまり自分の心や頭に)どんなものを入れるかというのは、普段の生活習慣や学習かもしれません。それから、また暗闇の中でおもちゃ箱に手を入れようと思うことも自分の意思かもしれません。でもそこで見つかるものについてはどうでしょうね。
それからまた、比喩を続けるならば、おもちゃ箱に手を入れようと決心すること自体が、そもそもどこから来ているのか、私にはよく解りません。
本当に、本当に、深いところまで、第一原因のそれ以前の根本的な原因まで、探ってみると「これは私が偉いからできることだ」のように考えるのは、大変視野が狭い考え方のように思うのです。これは、道徳や倫理とは少し話が違うとも感じます。「自分に栄光を帰する」というのは、単純に考えが浅いというか、単純すぎるというか、子供っぽすぎると思うんです。
自分が何かを達成することを喜ぶのは嬉しいことです。でもそこから一歩を進めるとき、その方向はとても重要です。
これは私が偉いから達成できたことなのだ、のように、自分に栄光を帰するのか。
達成できたことが嬉しいので、私はそれを喜ぶ。そしてこのような状況に至らしめてくれた様々なものや人や、神に感謝するのか。そしてそのために感謝する対象を探すのか。
この2つの方向はずいぶん大きく違うと思うのです。
朝の散歩をしながら、そんなことを考えていました。
この文章は、音声入力を利用して結城浩のマストドンに投稿したものです。