AIの時代における「価値」について

AIの時代における「価値」について

イメージを思い描く技術や能力と、そのイメージを実際の画像として手を使って描くことができる技術や能力とは、別のものです。それと同じように、何かの説明を組み立てる能力と、それを文章に起こす能力は、いくぶん重なる部分はあるとはいえ、やはり別のものでしょう。

複数の能力を備えていて、初めて絵を描いたり文章を書いたりすることができるとするならば、その複数の能力のうちいくつかをコンピューターやAIが補ったとしたら、それは人間の助けになるのではないでしょうか。そんなことを、よく考えます。

気になるのは、そうやっていろんなことをAIがサポートしていった場合、人間のやることがなくなってしまうだろうか、というところですよね。

仕事としてできるかどうか、仕事になるかどうか、採算が取れるかどうかということはとても難しいので、そこは度外視して考えたいのですが、人間が関わると、効率や生産性という点ではかなり落ちるのではないでしょうか。

今はまだ人間のほうが優れている部分がたくさんありますけれど、あと少しすれば(その「少し」が数年なのか数十年なのかは分かりませんが、100年ということはないと思います)、ほとんどの能力は人間を上回るのではないかと思います。

けれども、私が結城メルマガでときどき書くように(まだ書いていなかったかもしれませんが)、「自分がやらなくては意味がないこと」というのがなくなるわけではないと、私は思っています。

主観と客観は違う、と抽象的に表現することもできますし、「特定の誰かがやることに意味がある作業」というのは、残るのではないかと思うのです。

そのときの「価値」というのは、現代人の目から見た価値とは少し違うものになっている可能性もありそうですね。主観的な価値とか、お金とは違う価値とか。そういうことです。

いや、本来の価値というのは、そちらのほうなのかもしれませんけどね。そんなことを、最近よく考えています。

https://link.hyuki.net/mm/

2025-06-04 07:12:51 +0900

この文章は、音声入力を利用して結城浩のマストドンに投稿したものです。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki


『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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